視覚への疑い(『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んで)

伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んだ。2015年に出版された本だが、私が本屋で偶然見つけたのは2017年2月初旬。私は「視点」関係の話が大好物なので、タイトルを見て0秒で手に取り購入。

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

 

「視点」というテーマがなぜ気になってしまうのか、とても個人的な経験・感覚を書いてみる。以下に書くのはこの本の内容と関係なさそうなことばかりだが、目の見えない人の世界の見方を知ることは、著者も書いているように認識の本質に迫るインスピレーションが私にも多くあったのだ。

自分の目での見え方を見つめる 

私は小学生の頃から、なぜだか自分の視覚を疑っていた。中二病?の一つなのだろう。目に見えるものがなぜそう見えるのか。見えていると認識しているものは、他の人と同じなのか、違うのか。そんなことを考えてしまう小学生だった。

目で見えているものへの疑いの姿勢は、今でも変わっていない。中二病が癒えないオッサンだ。自分の目でどのようなものが見えているのかを、日常の中で試して考えたりしてしまう。その中で、「連続に見えるのは思い込み」という些細な経験の話をしよう。

たとえば、まあまあの晴天の日の午後、青空に雲がゆっっっくりと動いているのが見える。その雲の近くを飛行機が飛んでいる。雲と飛行機の両方を、瞬きせずに凝視してみる。この凝視が私にはとても難しく、凝視しているつもりでもちょっと意識がそれて視点を少し横へ移動させてしまったりするのだけど、何とか数秒凝視することはできる。それを何度かやって確かに感じるのは、雲と飛行機の動きがどうも不連続に見えるということだ。ある瞬間見えた位置と向き(その瞬間の変化量)から滑らかに連続的に動いているように見えた直後、雲と飛行機の位置が一瞬前の位置に戻り、そこからまた連続的に動く。そしてまた少し戻る。そんな風に見える。

たとえば、仕事帰りに寄り道をして遅くに帰宅した日。私の家はまあまあ山奥なので、夜遅くなると人工的な明かりは全くない。満月の日でなければ、星の光のみでほんとうにうっすらと地面が見えるか見えないかという程度の暗闇だ。その状況で、私は懐中電灯などを持たずに、家の周辺を飼い犬を連れて散歩する。ほぼ暗闇なので私はゆっくり移動するのだが、犬にとっては問題ない暗さなのだろう。普段通りちょろちょろと動き回っている。白い毛の犬なので、暗闇の中、リードの先に白い塊が見える。その犬がちょこまかと動く様子をこれまた凝視してみる。すると私の目には、まるでとぎれとぎれにしかパケットが送られてこない動画のように、少し動く映像、その後スキップして、違う位置からまた少し動く映像、というように見える。

人の目が受け取っている情報は、不連続なんじゃないのか? 特に暗いところでは、目が受け取る情報の量(光の量や頻度)が少ないので、より不連続に見えるんじゃないのか? 自分の体感を説明するために、そんな私的な仮説を立ててみたりする。

 

こんなこと、世界のどこかで誰かがすでに研究してたりするから、世の中は面白い。2つほどリンクを紹介して、まとまりのない独り言を終わろう。  

渡辺幸三氏のブログ記事『システム設計に求められる適性』では、オリバー・サックスの著書に触れた以下の部分があった。

オリバー・サックスの名著「妻を帽子と間違えた男」の中で、嗅覚と視覚が3週間にわたって異常に鋭敏になった24歳の男性の実話が紹介されている。その結果、彼は事物を分類したり抽象化してとらえることができなくなったという。彼の感覚が受け取る事物は精妙な違いを伴う個々にユニークなものであるため、それらを上位概念でくくることが感覚的に許容できなくなる。「嗅覚が鋭くなってめちゃラッキー」なんて話ではまったくなくて、人間に特徴的な知性を行使できなくなるという致命的な問題が、一時的ではあるが生じてしまったのだった。 

 感覚が鋭くなることによって、抽象化できなくなる。これも、不連続が際立ってしまうこととつながっている話だと思う。

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

もう1つは、スゴ本ブログの『知覚を生み出す脳の戦略『音のイリュージョン』

こちらは不連続・連続の感覚を、音(聴覚)に対して取り扱ったものだ。

音のイリュージョン――知覚を生み出す脳の戦略 (岩波科学ライブラリー 168)

音のイリュージョン――知覚を生み出す脳の戦略 (岩波科学ライブラリー 168)