『青の数学』が面白かった

王城夕紀の『青の数学』『青の数学2』が面白かった。読後の感触が消えないうちに、さらっと感想メモを書いておく。

 

青の数学 (新潮文庫nex)

青の数学 (新潮文庫nex)

 
青の数学2: ユークリッド・エクスプローラー (新潮文庫nex)

青の数学2: ユークリッド・エクスプローラー (新潮文庫nex)

 

 

「才能って何だろう?」

青の数学は、数学オリンピックを目指すような数学的才能を持った少年少女たちが、数学を通して自分や仲間と、そして数学自体と向き合っていく姿が描かれた小説だ。「数学とは何か」という問いが話の中心にあるが、その問いに向うものたちが、頻繁に向き合うのが、「才能とは何か」という問いだ。私はこの問いに、個人的に強い思い入れがあったので、さまざまな登場人物の語る才能に対する思いに、自分を投影したり、頷いたり、反感を覚えたり、感極まったりしつつ、ページを次々にめくって読むことを止められずに、2巻まで一気に読んでしまった。

 

私の記憶の中で、「才能」という言葉は「挫折」と強く結びついている。特に強く覚えている挫折が、2つある。

 

1つ目は、私が高校生の頃の話だ。高校では陸上部に入っていた。中学の頃から短距離走においては市の大会では常に上位でちょくちょく優勝するくらいの実力があった。当然ながら、自分には短距離走の才能があるのだと思って疑わなかった。高校の陸上部では2年になって3年が引退すると、私が部のキャプテンになった。その年に入部してきた1年は、中学の時の後輩や同じ大会で走った別の中学の後輩らだった。その後輩の1人Kは、高校に入ってからメキメキと力を伸ばし、遂にはその年に100m走で全国大会へ出場するまでになった。一方の私は地区の大会止まりのまま、まったく成長していなかった。部活では、しばらくその後輩と組んで練習メニューを行ったこともあった。しかし私の成績はほとんど伸びなかった。ある地区大会で、いつものように冴えない成績だった走りの後で、顧問の先生に質問した。

「Kは、なぜあんなに速いのですか?」

「バネが違うんだ、アイツは」

バネが違う。この一言で、私はすべてを納得してしまった。私にはバネがない。才能がないということを。努力して練習しても、自分には絶対に到達できない世界がある。自分が行ってみたいと幼稚にも思っていた世界に、行く資格が無いのだと知る。頭と体の両方で、完全に納得した。それで私は陸上部を辞め、ガリ勉になった。

 

2つ目は、私が大学生の頃の話だが、大学に入る前の高校時代まで少し戻る。高校の陸上部をやめてガリ勉になった私は、進学校だったこともあり、格好をつけて偏差値の高い大学を志望校に設定していた。なぜだか分からないが数学の点数は比較的良く、その高校の学年内では常にトップクラスだった。だから、、、当然の流れで、自分には数学の才能があるのだと、思ってしまいますよね? そして、数学ができることは格好良い、大学へ進んでもっと数学をやるのだと考えるようになってしまっていた。

そんな甘っちょろい考えだったにも関わらず、奇跡的に志望校に合格した。そして、同じクラスになったヤツらに、徐々に圧倒されることになる。全国模試で上位常連だったやつがゴロゴロいるのは全く驚くことですらなかった。クラスメートの多くは、大学でやる学問のことを、すでにある程度知っているようで、私は最初から取り残された感覚だった。そんな私だったが、わりと親しくできる友人Hができた。Hは有名進学校の出身なのだが、センター試験の点数を聞くと、私より低かったようだ。しかし彼は合格した。青の数学に出てくるような、数学の才能をもった人だった。聞けば高校時代に数学オリンピックに挑戦したり、その数学オリンピック関係の合宿に参加したというではないか。青の数学に登場するような人物が、過去に自分の身近にいたという経験が私にはあったのだ。Hの数学の実力は飛び抜けていたが、例に漏れず、そういう青春しか過ごしてこなかったのだろう。なぜか私はHの恋愛相談相手という立ち位置で、彼と親しくなったのだった。

大学1年の授業で、Hはたびたび講師の教授を困らせていた。電磁気学の授業では、授業第1回目にHがおもむろに「電磁気学の法則を学ぶには、まず微分形式を導入する必要がある。それなくして電磁気学は成り立たない」(うろ覚え)というような発言をした。その回の講義は当初のまま進んだため、Hの話は無視されたのだろうと思っていたが、次の電磁気学の授業で、教授が黒板に最初に書いたのは「Manifold(多様体)」だった。それから2ヶ月ほどは、電磁気学ではなく多様体の基礎から微分形式までを駆け足でたどる数学の講義だった。Hは満足そうな顔をしていたのを覚えている。

H以外にもすさまじいヤツらばかりだった。「物理の問題なんていうのは、全部システマティックに解けるんだ」と言い切るヤツなど。私は、育ってきた世界、みえている世界が違いすぎると思った。

それでも、いろいろ本を読んだりすれば挽回できるんじゃないか?なんて思って、専門書を買いあさり、いろいろと読んでみるものの、まったく実にならない。身につかない。今から思えば、その時の私は、「どうやって学ぶのか」「どうやって自分で考えるのか」ということを、ほとんど知らなかった。本を読んだだけで挽回できるというようなことでは、全くなかったのだ。あらゆることが足りていなかった。きっと才能も。

それで私は、大学を辞め、コンピューター関係の道を目指すようになった。

 

私は今42歳。コンピューター関係の職業は、今でも続けられている(大小さまざまな挫折はあったが)。

私には、何か才能があるのだろうか?

この問いについて、正直に今思うことを書くと、「それはどうでも良い」だ。今自分にこの仕事ができているのが、才能のおかげなのかどうかは測るすべがないし分からない。ただ自分には、すべてのことはできないが、何らかのことはできる、というゆるぎない自信がある。それだけだ。それである程度の対象には、向い続けることができている。それで良いんじゃないかな。

 

与太話を書いてしまったが、とにかく、自分のいろいろな思いを刺激されもした『青の数学』。続きがあるなら是非読みたい。