村上春樹の小説を初めて読んだ(雑文集、職業としての小説家、騎士団長殺し)

私はこれまで、村上春樹の作品を避けてきた。まともに読んでもいないのに。

まわりから聞こえてくる噂から、私の中で村上春樹作品は、(いろいろな方面で失礼な書き方になってしまうかもしれないが)官能小説のようなものとカテゴライズされ、そして未熟な頃の私は、それを自分には不要なカテゴリーだと決めつけて人生を生きてきたように思う。

ところがここ最近の私は、小説というものになぜだか興味が湧いている。そこで語られるストーリーはもちろんなのだが、どちらかといえば、ストーリーの語り方、語る順番、言葉の選び方などといった部分に。「小説技術」とでも言うのだろうか。何らかの意図を伝えるのに必要な構造としての小説、そのような側面にすごく興味が湧いている。もちろん、そこに「設計」と通ずるものがあると個人的に感じているからだ。

 そのような最近の傾向もあって、書店へ行くとかなり幅広くいろいろなジャンルの棚を回って、目についたタイトルの本を手にとってパラパラとめくってみる。その時その時で自分の追いかけているテーマやキーワードがあって、そのものズバリではないのだけれど、ふと引っかかる言葉が見つかったりする。過去に気になって調べていたことや、どこかで聞いた言葉が、それとは思いもしなかったタイトルの本の中にたまたま出てきたりする。そういう期待ばかりを求めているわけではないのだけれど。

 

そんな風にして書店で偶然手に取ったのが『村上春樹 雑文集』だった。手に取る時点で私には若干のためらいがあった。何しろこれまでの人生で、ずっと避けてきたカテゴリーのものだったのだから。しかし私の「小説そのものへの興味」がその時はわずかに勝ったようだった。

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

 

この本に収められている、最初のエッセイ「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」は、次のような文で始まる。

小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。 

この一文を読んで、私は続きを読まずに本を閉じた。一文を見ただけで、この本を買うことに決めてしまったからだ。

私がこの本と出会った頃、ある人と「ソフトウェア設計者の資質」について話していた。何らかの領域を生きる道として歩いている人に備わる傾向、それがソフトウェア設計という領域ならばどのようなものなのか。何らかの基準なのか、能力なのか。先天的に持つものなのか、後天的に獲得しうるのか。そんな話をしていた時だった。そのようなテーマを脇に抱えていた私は、この「小説家とは」という文に強く惹かれた。

雑文集には牡蠣フライのエッセイ以外にも、エルサレム賞受賞時の挨拶文や、音楽についてのエッセイなどが掲載されていた。短いエッセイからでも、この文章を書く村上春樹という人が、小説というものをどのように捉えているのか、そして小説という構造をどのように生みだしているのかが、垣間見えた。

そうこうしているうちに、村上春樹という作者への興味がだんだんと強くなってきた。もう一冊村上春樹の本を読んでみよう。その時点でも、村上春樹の小説作品はまだ、私にとって「避けたいカテゴリー」に属したままだと感じていたが、この雑文集のようなエッセイはとてもおもしろく、同じようなものが他にあるのではないか、あれば読みたいと思った。そして見つけたのが、『職業としての小説家』だ。

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 タイトルを見た瞬間に探していたのはこれだと思った。そして、ものすごく興味深く読んだ。この本を読んでいるある時点から、私の中では「村上春樹とはすごい人だ」という認識に変わった。

またソフトウェア設計の話にそれるが、最近学んでいる本で大きなテーマとして取り上げられているキーワードの1つに「長期的」というのがある。「時を超えた」とも表現される。かなり長い時間を基軸として物事を考える姿勢だ。たとえばスチュアート・ブランドのTHE CLOCK OF THE LONG NOWには、1000年や10000年で1まわりする時計を自己の内側に概念として持つことが提案されている。そのような概念的な時計を持つことで、長期的な視点に立てるのだと。

「職業としての小説家」には、いくつか時間にまつわる話が書かれている。物事を語るリズムとしての時間、オリジナリティと時間といったもの。それはこの本のメインコンテンツではないけれど、今の私にはよく響く内容だった。 

そして私はついに、このような考えや態度のもとに、この村上春樹が書いた小説は、どのようなものなのか知りたくなった。もうこれは読んでみるしかないと思った。そうして選んだのが、村上春樹のもっとも新しい長編小説『騎士団長殺し』だ。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

本屋へよく通う私は、「騎士団長殺し」の存在を発売前から認識していた。どの本屋でも大きくキャンペーンされていたからだ。しかし私はできるだけそれを避けるようにしていたので、どのような内容なのかはまったく知らなかった。

読んでみようというタイミングになって本を手に取った時、そのサブタイトルに驚いた。「第1部:顕れるイデア編」「第2部:遷ろうメタファー編」。私は哲学も大好きなのだ。このサブタイトルを見ただけで、「何、何、どういうこと?」と好奇心を抑えられなかった。この本は最後まで読むだろうと直感し、1部と2部を同時に購入した。

内容には特に触れないが、私のいろいろな感情や知識や魂を刺激してくれるもので、読み終わってとても満足している(だからこうしてブログまで書くことにしたのだ)。

私は騎士団長殺しという物語を読みながら、その背後や物語の中に村上春樹自身を見、それと同時に、自分自身を見ているようだった。この本に至るまでの流れからも、必然的に読まれるべき作品を読んだような気がする。それはとても不思議でもあり、また、それはありふれたことなのかもしれないとも思う。

 

引き続き村上春樹の小説を読むかどうかはまだ分からない。今回は運良く読まれるべき本に出会えただけなのかもしれない。しかし、もう少し幅広くいろいろな小説を読んでみようという気持ちは強くなった。